2012年6月14日木曜日

長宗我部 元親

こんにちは!

歴史好き(主に戦国時代)の福永です。

毎回、個人的に好きな人物やエピソードを紹介していきたいと思います。

今回は・・・自分の出身地である高知(土佐)で思い入れのあるこの方です。

そう・・・NHK大河ドラマで主役をやってほしい戦国武将1位にも選ばれたこの人!









長宗我部 元親 (ちょうそかべ もとちか)










の紹介です。


戦国時代に 土佐の高知 で生まれ、四国を統一した戦国大名。

奥様はあの明智光秀の家臣・斎藤利三の妹。

知勇兼備で戦も上手く仁徳もあり!と・・・高い評価をされてた人ですが、悲しい事件が

きっかけで英雄の覇気を失ってしまうという少し切ない人間味あふれた人物です。

長宗我部氏とは

長宗我部氏は古くは平安時代末期から続く系譜で、元親は21代目の当主だそうです。

祖先ははっきりしませんが、中国秦の始皇帝の流れを組み日本に定着した秦氏や

大化の改心で有名な蘇我氏の後裔ではないかと言われています。

 
こちらが長宗我部家の家紋。

七つ酢漿草(かたばみ)というそうです。




幼少期

1539年に岡豊城(城跡は高知県南国市岡豊町八幡の岡豊山にあります)で

長宗我部家20代当主、国親(くにちか)の嫡男として生まれした。

幼い頃は長身(一族みな背が高い家系だったようです)でしたが

色白でおとなしく、軟弱な性格から「姫若子(ひめわこ)」などと、侮られていたそうで

父親の国親も後継ぎとして、あまりの頼り無さに悩んでいたそうです。


初陣から土佐統一まで

周囲からあまり期待されていなかった元親ですが、1560年6月ついに初陣をむかえます。

22歳での初陣だったそうで、この時代としてはかなり遅めだったようです。

しかしその初陣では見事な戦いぶりを見せ、今までの評価を覆し、一躍その名を轟かせます。

ちなみに2日前は織田信長が、かの桶狭間の戦いで今川義元をやぶった日です。





高知県高知市にある

元親初陣の像です!

カッコイイですね☆












初陣から間もなく父親の国親が急死し、家督を継いだ元親は優秀な家臣団と兄弟

そして屈強な一領具足たちを率いて土佐の統一へ乗り出します。

当時、土佐には長宗我部を含め7雄と言われる勢力とその盟主筋にあたる一条家という

有力な勢力があり、長宗我部家はその中でも最も弱小勢力で元親の父、国親が幼少の

頃には、一時滅亡という憂き目をみます。

しかし国親がなんとか盛り返し、元親が家督を継いでからは有力勢力を次々に滅ぼし

ついに土佐の盟主であった一条家と争います。

そして実弟の吉良親貞 (きら さだちか)等の活躍もあり、1575年には一条家を

四万十川の戦いで破りこれを滅ぼし土佐を完全に掌握し土佐統一を果たします。


一領具足とは

半農半兵の兵士達で、戦国時代を乗り切るために国親の代に考えられた長宗我部家

特有の軍事制度です。半農であるため、収穫季の長期の遠征などには不向きでしたが

鍛えられている者が多く、集団行動も得意なため兵士としては非常に優秀だったそうです。

織田信長等が進めた兵農分離で生まれた職業軍人制度とはまた違った方向の制度で

領地も少なく弱小勢力が飛躍するには有効な制度だったと考えられます。

元親はこの一領具足たちを非常に大事にし、上級武士の意見よりも半農である一領具足

たちの意見をよく聞いたそうです。


そして・・・四国統一へ

といきたいところですが

長くなってしまった為

つづきは次回で!